Share This Post

HEADLINE / アマチュア無線の基本 / お知らせ

【無線通信の歴史】戦争で11年間も“電波封印”されていた。アマチュア無線100年の歴史に隠された壮絶なドラマ

オンエアーズ アマチュア無線の歴史

日本アマチュア無線連盟100周年

皆さんは「アマチュア無線」と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか?

2026年、日本のアマチュア無線界は歴史的な大転換点にして記念すべき節目を迎えます。1926年(大正15年)6月12日に日本アマチュア無線連盟(JARL)が37名の先達によって創立されてから、ちょうど100周年を迎えるのです。さらに翌2027年には、日本における最初のアマチュア無線局(私設実験局)が開設されてから100年となります。

JARLはこの1年4か月間を祝賀期間と位置づけ、「“あたりまえ”、なんて退屈だから。」というスローガンのもと、単なる回顧にとどまらず、アマチュア無線という文化を未来へ向けて発展させる新たなスタートとして様々な記念事業を展開しています。

この記事では、オンエアーズの特別企画として、アマチュア無線がいかにして誕生し、世界大戦の荒波を越え、戦後の黄金期を経て、携帯電話やインターネットの普及という通信インフラの激変の中でいかに進化してきたのかを徹底的に紐解きます。無線の歴史は、国家の巨大プロジェクトと個人の飽くなき探究心が交錯する、技術と人間の壮大なドラマなのです。

アマチュア無線以前の通信世界:無線の誕生と国家インフラへの発展

アマチュア無線の歴史を深く理解するためには、そもそも「無線通信」という技術がいかにして産声を上げたのかを遡る必要があります。

1888年にドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツが電磁波の存在を実験で証明して以来、空間を隔てて情報を伝達する夢は多くの科学者たちの標的となりました。その実用化に最も早く成功し、商業的な軌道に乗せたのがイタリアの発明家グリエルモ・マルコーニです。彼は1895年に手作りの無線機で通信に成功し、1899年にはドーバー海峡横断、1901年には大西洋を横断する長距離無線電信に成功しました。

ここで注目すべきポイントは、無線通信の実用化を果たしたマルコーニ自身が、当初は巨大な研究機関に属さない一介の「アマチュア発明家」であったという事実です。19世紀末の電気通信は、既に大西洋横断海底ケーブルをはじめとする有線電信網が世界中を覆い尽くす巨大なインフラ産業でした。しかし、無線通信は自宅の庭にアンテナを張り、個人の創意工夫で遠方との通信を確立できるという、極めて分散的かつ個人的なポテンシャルを秘めていたのです。マルコーニは、通信距離を伸ばすためにアンテナを高く立ち上げて火花放電端子の一端に接続し、もう一端を大地にアース(接地)するというトップローディングの原理を実証し、効率的な電波の放射と長距離伝搬を実現させました

しかし、無線通信が持つ「移動体(船舶等)との通信が可能」という圧倒的な戦略的価値が明らかになると、この技術は瞬く間に個人の手を離れ、国家や軍事の独占的領域へと移行していきます。日本においても、長岡半太郎が1889年に火花放電の公開実験を行って以来、国を挙げての無線機開発が急務とされました。1900年代初頭、日本海軍は高額な特許料を要求するマルコーニ社の無線機導入を諦め、逓信省の松代松之助や第二高等学校(現・東北大学)の木村駿吉教授らを招聘して独自の国産無線機開発に着手しました

木村らの尽力と、安中電機製作所(現・アンリツ)によるインダクションコイルの国産化成功により、通信距離1,000kmに達する「三六式無線機(三六式無線電信機)」が1903年(明治36年)に完成します。この非同調式普通火花送信機とコヒーラ検波器からなる巨大な装置は、1905年の日本海海戦において仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦見ユ」という歴史的打電に使用されました。秋山真之による精緻な索敵計画と、外波内蔵吉による通信網の構築が見事に融合し、日露戦争における日本の勝利を決定づける高度な情報システムとして機能したのです

このように、1910年代までの通信の世界は、無線技術が個人の実験室で産声を上げた直後に、国家の命運を左右する軍事的・商業的な巨大インフラへと急激に変貌を遂げた時代でした。

年代無線通信黎明期の重要マイルストーン
1888年ハインリヒ・ヘルツが電磁波の存在を実験で証明しました
1895年グリエルモ・マルコーニが手作りの無線機で通信の実用化に成功しました
1901年マルコーニが大西洋横断通信に成功しました。日本でも松代松之助・木村駿吉らが独自無線機で130km通信に成功しました
1903年日本海軍が通信距離1,000kmに達する「三六式無線機」を制式採用しました
1905年日本海海戦。「信濃丸」が三六式無線機を用いて敵艦隊発見を打電(敵艦見ユ)しました

アマチュア無線の誕生:「無価値」な短波帯の開拓と電離層の発見

無線通信が国家や海運業のインフラとして重用されるようになると、電波(周波数)という目に見えない有限の資源をどのように分配・管理するかが国際的な課題となりました。その決定的な契機となったのが、1912年のタイタニック号沈没事件です。この悲劇により海上における無線通信の重要性と混信防止の必要性が痛感され、同年にアメリカ合衆国議会は「無線法(Radio Act of 1912)」を施行しました

この法律は、通信の世界に予期せぬパラダイムシフトをもたらします。当時、長距離通信には波長の長い中波や長波が適していると信じられており、政府や商業局がこれらを独占しました。そして、個人で実験を行うアマチュア無線家たちには、「波長200メートル以下(周波数1,500kHz以上)」という制約が課されたのです。当時の常識では、波長200メートル以下の「短波(Shortwave)」は地表波としての減衰が激しく、遠距離通信には全く役に立たない「無価値な帯域」と見なされていました

しかし、無価値な荒野へ追いやられたアマチュア無線家たちは、この制約を逆手にとり、通信の歴史を根底から覆す大発見を成し遂げます。彼らはこの短波帯を用いて、長波よりもはるかに小規模な設備と低い電力で、大西洋横断通信や地球の裏側との交信を次々と成功させたのです。1921年末から1922年にかけて、アメリカやヨーロッパのアマチュアたちは200メートル帯域での大西洋横断テストに成功し、1923年から1924年にかけては、さらに波長の短い100メートル(3MHz)やそれ以上の高い周波数を用いて、数千キロから一万キロを超える通信を日常的に行うようになりました

この驚異的な現象を科学的に裏付けたのが、「電離層(Ionosphere)」の存在です。1902年にアーサー・エドウィン・ケネリーとオリヴァー・ヘヴィサイドがそれぞれ独立して予言していた「電気を帯びた大気の上層」の存在は、長らく間接的な証拠にとどまっていました。しかし、アマチュア無線家たちの短波通信の実績がその存在を強く示唆し、ついに1924年、エドワード・アップルトンらによって電離層(E層およびF層)の存在が実証されたのです。短波は、上空の電離層と地表との間で反射を繰り返す(スカイウェーブ伝搬・スキップ伝搬)ことで、見通し距離を遥かに超えて減衰することなく地球の裏側まで到達することが判明しました

この出来事は、技術史において極めて重要な因果関係を示しています。権威ある専門家たちが見捨てた領域において、規制の枠に縛られないアマチュアたちがイノベーションを起こし、その後に商業や学術が追随したのです。実際、実用化の父であるマルコーニ自身も、1923年頃からアマチュアたちの後を追う形で短波の長距離通信実験(波長97メートル等)を大々的に開始し、その優位性を認めて商業的な短波通信網の構築へと舵を切っています

JARLの創立と国際的認知:日本におけるアマチュア無線の幕開け

欧米におけるアマチュアたちによる短波帯の開拓と長距離通信の成功は、日本の無線愛好家たちにも強烈な刺激を与えました。日本の電波行政は1915年(大正4年)に施行された無線電信法および私設無線電信規則によって厳しく管理されていましたが、個人の探究心を完全に抑え込むことはできませんでした

1926年(大正15年)6月12日、日本の先達である37名の盟員が集結し、「日本アマチュア無線連盟(JARL)」が創立されました。この日、彼らは全世界のアマチュア局に向けて、“We have the honor of informing that we amateurs in Japan have organized today the Japanese Amateur Radio League. Please QST to all stations”という結成宣言文を電信で打電しました。この歴史的な打電は海外の局に受信され、アメリカの著名なアマチュア無線機関誌『QST』の1926年8月号にも華々しく紹介されました

翌1927年(昭和2年)の春には、後の国際呼出符号とは異なる国内実験局のコールサイン(JLYB等)が許可され、同年9月10日には、JARL初代総裁の草間貫吉氏らに対し、短波私設無線電信無線電話実験局(コールサイン「JXAX」等)の免許が正式に付与されました。これが法的に認められた日本における最初のアマチュア無線局とされています。当時の彼らに割り当てられた波長は38メートル(約7.8MHz)であり、短波の実用化からわずかな期間で個人の実験局が認可されたことは、当時の電波当局の英断とアマチュアたちの技術力の高さを物語っています

さらに、同年1927年に開催された国際無線通信会議(ワシントン会議)は、アマチュア無線の地位を確固たるものとしました。この会議において、10kHzから60MHzまでの周波数分配が国際的に定められ、国際呼出符字列の対象として従来の固定局・陸上局・移動局に加えて「私設実験局(アマチュア無線)」が正式に追加されたのです。こうして、アマチュア無線は世界的な認知を受け、国境を越えた技術的・文化的な交流のプラットフォームとしての道を歩み始めました。

世界大戦の波紋:兵器化する電波と沈黙の時代

自由な発想で空を駆け巡り、国際的な友情を育んでいたアマチュア無線でしたが、20世紀前半の二つの世界大戦は、彼らの活動を容赦なく沈黙させました。電波が持つ「国境を無視して瞬時に情報を伝達する」という強力な能力は、国家の安全保障にとって制御不能な両刃の剣と見なされたからです。

第一次世界大戦の勃発に伴い、アメリカ合衆国議会は1917年、国内の全てのアマチュア無線家に対して運用の中止と機器の解体を命じました。この制限は終戦後の1919年10月に解除され、再び空に活気が戻ったものの、この出来事は、平時における通信の自由がいかに脆弱な基盤の上に立っているかを示す最初の警告でした

日本においては、昭和初期の戦間期にかけて私設実験局の数は徐々に増加し、1941年(昭和16年)12月の時点では331局を数えるまでに発展していました。しかし、その細々とした自由は唐突に終わりを告げます。1941年12月8日、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が開戦しました。同日をもって、日本国内の実験用私設無線電信無線電話(アマチュア無線)における電波の発射は全面的に禁止され、厳しい制限下に置かれました。無線機器メーカーの実験施設等も含め、個人の通信設備は事実上封印され、戦中から戦後に至る約11年間にわたり、日本のアマチュア無線は深い沈黙の時代に突入しました

1945年(昭和20年)8月15日の敗戦後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入りました。戦後の混乱期において、ラジオ放送や短波放送の受信こそ早期に許可されたものの、日本人によるアマチュア無線の送信は引き続き厳しく禁じられていました。その一方で、皮肉なことに日本の空(電波)は進駐軍(占領軍)の関係者たちによって活発に利用されていました。1946年(昭和21年)頃から、進駐軍の兵士たちは戦前の日本に割り当てられていた「J2〜J7」や、台湾・南洋・沖縄地域を表す「J9」のプリフィックス(接頭文字)を使用して日本国内からアマチュア無線の運用を行っていたのです。1948年に運用された「J2AZA」(ジェーンズ大尉)や、沖縄からの「J9ABS」といったQSLカード(交信証明書)は、日本人が自国の空で電波を封印されていたこの複雑な時代を物語る貴重な歴史的資料として今日に遺されています

時代アマチュア無線に対する戦時・戦後の規制
1917年 (WWI)米国議会が国内の全アマチュア無線家に対し運用中止・機器解体を命令(1919年解除)しました
1941年12月 (WWII)太平洋戦争開戦。日本国内の私設実験局(331局)の電波発射が即日全面禁止となりました
1945年8月以降敗戦とGHQ占領。短波の受信は許可されましたが、日本人による送信は引き続き禁止されました
1946年〜占領軍(進駐軍)関係者が日本国内から「J2〜J7」「J9」等を使用して運用を開始しました

戦後の復活と「キング・オブ・ホビー」の黄金期

日本の空が再び日本人の手に戻ったのは、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本が主権を回復した直後のことです。1952年(昭和27年)7月29日、当時の電波監理委員会から全国の30名に対して、戦後初となるアマチュア無線局の予備免許が交付されました。この歴史的再開を記念し、JARLは後に7月29日を「アマチュア無線の日」として制定しています

この再開第一陣の中には、関東エリア再開後第1号となる「JA1AA」のコールサインを取得した庄野久男氏などが含まれていました。当時はまだ占領の傷跡が残り、部品を揃えるだけでも極めて困難な時代でしたが、先駆者たちは乏しい回路図や製作技術の資料を必死に集め、送受信機を手作りして試験電波を発射しました。たとえばJA3AAの島伊三治氏は、1952年8月に813真空管を用いた陽極入力300Wの送信機を組み上げ、14MHz帯で海外局(フィリピンのDU1CE)との戦後初の国際QSO(交信)を達成しています

このアマチュア無線の再開に誰よりも熱狂したのは、戦時中に「ラジオ少年」となるべき10歳前後の時期を過ごし、無線通信の制限や部品不足の鬱屈を抱えていた世代(主に昭和6年(1931年)前後生まれ)でした。幼い頃に鉱石ラジオを作り、空へ想いを馳せていた彼らの爆発的な情熱が原動力となり、1958年(昭和33年)の電話級・電信級アマチュア無線技士資格の新設なども相まって、日本のアマチュア無線局数は急速な右肩上がりを見せ始めます

そして1970年代に入ると、アマチュア無線は「キング・オブ・ホビー(趣味の王様)」と呼ばれる未曾有の黄金期を迎えます。この時代を牽引し、世界中を席巻したのが日本の無線機メーカーの技術力でした。八重洲無線の「FT-101」やトリオ(現・JVCケンウッド)の「TS-520」といった高性能トランシーバーの登場です。これらの名機は、それまでAM(振幅変調)やモールス通信が主流であった世界に、より効率的なSSB(単側波帯)通信を普及させるとともに、最適な半導体と真空管のハイブリッド設計、洗練されたデザイン、そして絶妙な価格設定により、日本のみならず世界中のアマチュア無線市場を席巻しました

戦後の経済復興とエレクトロニクスの民主化が交差する中、日本国内のアマチュア無線有資格者は数百万人規模へと膨れ上がり、開局数は1994年のピーク時で約136万局に達しました。アマチュア無線は、科学的探究心を満たし、見知らぬ世界の人々と繋がる最も身近で最先端の趣味として、日本社会に深く定着したのです。

携帯電話の普及と非常通信へのパラダイムシフト:インフラの脆弱性を補完する役割

1990年代後半以降、通信の世界は劇的なパラダイムシフトを迎えます。携帯電話とインターネットの爆発的な普及です。かつてアマチュア無線が担っていた「離れた見知らぬ人、あるいは外出先の仲間といつでも会話ができる」というコミュニケーションの利便性は、小型で誰でも扱える携帯電話に急速に取って代わられました。これに伴い、純粋な連絡ツールとしての利便性を求めていた層が流出し、日本のアマチュア無線局数はピークを境に減少傾向に転じました

しかし、通信インフラが高度に進化し、社会全体が携帯電話網に依存するようになると、新たな深刻な問題が露呈します。それは、集中管理型ネットワークの物理的・システム的な「脆弱性」です。携帯電話や有線電話は、高度に複雑化した交換機や多数の基地局(セル)からなるネットワークに依存しているため、大地震等の広域災害によって送電線や光ファイバーが寸断されるとシステム全体が沈黙してしまいます。また、安否確認などで回線が輻輳(集中)すると、通信網そのものが物理的に生きていても全く繋がらなくなるという致命的な弱点を抱えていました

対照的にアマチュア無線は、端末(無線機)自体が独立した送受信機能と電源(乾電池やカーバッテリー)を備えており、中継インフラが崩壊した状況下でも「1対多数」での一斉情報伝達が可能という、極めて高い堅牢性(レジリエンス)を有しています

この真価が社会的に証明されたのが、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災です。インフラが壊滅し、外部から入る救援者が目的地に辿り着くことすら困難な状況下で、被災地内のアマチュア無線家(JA3WGL谷氏ら)は、ハンディ機やカーバッテリー駆動の無線機を用いて初動通信を行いました。彼らは、道路の通行状況、倒壊家屋の状況、給水ポイントなどのローカルな生活情報を収集し、海上自衛隊の護衛艦「しらね」のアマチュア局(JM1YEP)と連携するなどして、有線電話やFAXが生きている地域の局へ情報を中継し、最終的に消防や行政機関へ情報を伝達しました。当時の通信網の制約をアマチュア無線のネットワークで回避しつつ、最終的には行政の支援システムや紙媒体の掲示板へ接続するという、草の根のボランティア通信網として絶大な効果を発揮したのです

この教訓は、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災においても遺憾なく発揮されました。多数のアマチュア無線局が、電波法第52条第4号に基づく「非常通信」を実施し、被災地内の避難所情報や安否情報の収集にあたりました。東日本大震災では技術の進歩を反映し、アマチュア無線で得た情報がコミュニティFMやTwitter等のインターネット系情報発信と多層的に結びつくことで、より広範な情報インフラを補完する役割を果たしました

JARL等のアマチュア無線団体は、現在も自治体と防災協定を結び、非常通信マニュアルを整備するなど、平時は趣味として技術を磨き、非常時には携帯電話という巨大インフラが機能不全に陥った際の「最後の命綱(ラストリゾート)」となる分散型通信網を維持・継承し続けています

通信インフラ災害時の利点・欠点
携帯電話✖ 基地局・交換機に依存します。停電や光ケーブル断線で機能停止し、回線の輻輳で不通に陥りやすい傾向があります
有線電話✖ 物理的な回線寸断に弱いです。停電時に使用できない端末が多く存在します
防災行政無線〇 専用の非常用電源があり信頼性は高いですが、設置箇所が限定的であり機動性に欠けます
アマチュア無線〇 外部インフラに依存しません。バッテリー等で運用でき、1対多の通信が可能です。多様な周波数で近〜長距離をカバーします

デジタル技術の融合と次世代のアマチュア無線:FT8がもたらしたルネサンス

インターネットの普及により一度は衰退の危機に瀕したと見られたアマチュア無線ですが、2010年代後半から、コンピュータ技術とデジタル信号処理技術(とりわけSDR:ソフトウェア無線)の融合により、世界的なルネサンス(復興)を遂げています。その最大の起爆剤となったのが「FT8」と呼ばれるデジタル通信モードの登場です

FT8(Franke-Taylor design, 8-FSK modulation)は、天体物理学者であり、1993年に連星パルサーの発見によりノーベル物理学賞を受賞したジョー・テイラー博士(コールサイン:K1JT)と、スティーブン・フランケ博士(K9AN)らによって2017年に開発されました。テイラー博士は、天体観測における「宇宙の彼方からの極めて微弱な信号をノイズの中から抽出する」という高度なデジタル信号処理のノウハウを、アマチュア無線の微弱信号通信(WSJT系)に見事に適用したのです

FT8は、わずか50Hzという極めて狭い帯域幅の中に、8-FSK(8値周波数偏移変調)という方式を用いてデータを乗せ、強力な前方誤り訂正符号(LDPC)を活用します。さらに、PCの時計をNTPサーバーで厳密に同期させ、15秒間の送受信サイクルを交互に繰り返すことで、「人間にはただのノイズにしか聞こえない-21dB以下の超微弱信号」をもコンピュータで正確に解読・デコードすることを可能にしました

この技術的ブレイクスルーは、アマチュア無線の世界に文字通りの革命をもたらしました。巨大なアンテナや大出力の送信機を持たずとも、アンテナ設置に制限がある都市部のマンションから、数ワットの小出力で世界中の無線局と交信できるようになったのです。さらに、定型文(コールサイン、グリッドロケーター、信号強度等)での自動化されたやり取りにより言語の壁が消滅し、海外局とのDX(遠距離)通信のハードルは劇的に下がりました

また、FT8の普及はアマチュア無線の目的を「会話」から「科学的観測」へとシフトさせています。交信データは「PSK Reporter」などのWebサービスと連動し、自局の微弱な電波が地球上のどこまでリアルタイムに到達しているかを可視化できます。これにより、世界中の数万のアマチュア局がビーコンとなり、電離層の状態変化や太陽フレアの影響を監視する巨大な「ビッグデータ収集ネットワーク(プロパゲーション・リサーチ)」が形成され、電波伝搬の学術的研究にも大きく貢献しているのです

項目FT8 (バージョン2.x)従来の音声通信 (SSB/AM)
変調方式8GFSK(デジタル信号処理)アナログ音声変調
周波数帯域幅約50Hz(超狭帯域)2,500Hz 〜 6,000Hz
受信限界 (S/N比)-21dB以下(ノイズ以下でも解読可能です)約+10dB(耳で聞き取れるレベルです)
通信内容コールサイン、信号強度等の定型データ自由な音声会話
送受信サイクル15秒ごとの厳密な自動切り替え任意

マルコーニが火花式送信機で大西洋を横断してから1世紀以上が経過しましたが、「見えない電波で遠くの世界と繋がりたい」というアマチュアの根源的な欲求は、最新のデジタル技術によって再定義され、かつてない洗練された形で現代に蘇っています。

100年の絆を電波に乗せて、次の未来へ紡ぐ

アマチュア無線の100年に及ぶ歴史を俯瞰すると、それが単なる「通信技術の発展史」にとどまらないことが明確になります。それは常に、既成概念に対する挑戦の連続でした。マルコーニが実用化の扉を開いた黎明期から始まり、国家や商業局に見捨てられた短波帯を開拓して電離層の存在を実証し、戦争による通信の封印という暗黒時代を耐え抜き、戦後は焼け野原から自らの手で機器を作り上げて「キング・オブ・ホビー」と呼ばれる巨大な技術文化を築き上げました

そして現在、巨大インフラである携帯電話やインターネットが「あたりまえ」となった社会において、アマチュア無線は「自立した非常用通信網」としてのレジリエンス(強靭性)を社会に提供し続けると同時に、FT8のような最先端のデジタル信号処理を用いて地球規模の科学的研究に貢献する知的なプラットフォームへと見事な変容を遂げています

2026年、JARLが創立100周年を迎え、「100年の絆を電波に乗せて、次の未来へ紡ごう」と題された日本全国一斉オンエアーデー(6月12日)が開催されたり、記念局(JA1RL〜JA0RL)の特別運用、各種アワードの発行などが祝賀期間を通じて大々的に行われています。

「“あたりまえ”、なんて退屈だから。」。JARLがこの100周年に掲げたメッセージは、既存の便利なインフラに安住せず、自らの手でアンテナを立て、空間のノイズの中から微かな信号をすくい上げるアマチュア無線の不屈のスピリッツを見事に表現しています。通信の形がどれほど進化しようとも、自らの技術と知識で人と人、そして人と自然(電離層)をダイレクトに結びつける電波のロマンは、決して色褪せることなく、次の100年へ向けた新たな挑戦の扉を開き続けているのです。

関連リンク

Share This Post

こんにちは!オンエアーズのライターmayasaです。 小学生の時にアマチュア無線の電話級を取得、高校1年で2アマ(当時はモールスの聞き取りがありました!)社会人で1アマを取得!大学では電子工学を学び、電子回路の制作などを行っていました。 日頃からアマチュア無線の普及啓発活動に取り組んでいます。 子どもから大人まで多くの人にアマチュア無線の資格取得のための講習会を開催しています。 【関連資格】 第一級アマチュア無線技士 第一級陸上特殊無線技士